「なぜ?」
スッと私を見据えた敦賀さんに、問いかけられた。まず何から話すべきか、何日も考えて練り直した頭の中のマニュアルを開く。
「『I LOVE YOU を訳してください』……去年の今頃に私が敦賀さんにした質問です。覚えていますか?」
「……ああ、覚えているよ」
尋ねると、敦賀さんは少し間を置いて返事をした。記憶を探っていたというよりは改めて聞く体制の切り替えをした、そんな印象の数秒の空白。
「あの時、敦賀さんは『笑って欲しい』と答えてくれました。それは本当に素朴すぎるほどの答えで、正直言うとちょっと意外だったんです」
「意外…?」
「敦賀さんなら聞いただけで恋に憧れを抱くような、説得力のある意訳を考えてくれると思っていたんです。今振り返れば、勝手な思い込みにすぎないんですけど」
「それは君の期待に応えられなくて申し訳なかったね」
敦賀さんの言葉に、ゆっくりと頭を振る。
「いいえ、今は分かっています。敦賀さんは私以上に私の心情を理解してくれていたんです」
――あの頃の私にとって「愛」とは、決して触れる事の出来ない蜃気楼のようなものだった。世間にはそういうものもあるのだと遠く眺める事はできても、自分の為にそれを手に入れようなんて考えてもみなかった。
「私は『I LOVE YOU』という英文を自分なりに訳してみたい、理解したいと口にはしても、愛するという感情を取り戻そうとまでは思ってはいませんでした。敦賀さんはそれを知っていたからこそ、直感的に分かりやすい訳を示してくれたんでしょう?」
『笑って欲しい、かな』
敦賀さんにそう言われた時は、思わず目を丸くしてしまった。だって笑うなんて、簡単で単純で日常に溢れている感覚だもの。
だけど敦賀さんに出会った当時の私は、そんな感情さえも失っていたんだと……その事実を忘れていた事に後から気付いて愕然とした。
復讐に囚われていた私がいつの間にか笑えるようになっていた。顔を見るだけで自然に顔が綻ぶような、そんな大切な人がたくさんできて、笑っていて欲しいと思う人達も数え切れないほどたくさんいて……それが人を想うという事なのだと実感した。
そしてその多くの人達の中でも、更に特別な人がいるという事にも気付いてしまった。
「愛すると言う事は身近で自然な感情で、気負う必要はないのだと……敦賀さんにそう教えてもらったんだとようやく分かったんです」
「……では、君なりの答えを見つけられたという事かな」
真剣な眼差しで私の話に耳を傾けていた敦賀さんが、徐に口を開いた。
「…はい…!」
「でもあれだけ恋愛を否定していた君だ。そう簡単に意識を変える事はできなかっただろう」
敦賀さんはテーブルに片肘を突くと、その手の上に軽く顎を乗せて、私へと向ける視線を固定した。
「何か心境の変化でもあった…?」
「伝えたい人がいるんです。私の見つけた答えに返事をもらいたい人が…!」
「…そう……」
じっと私を見詰める敦賀さんの表情から確かな感情は読み取れず、その無言の圧力に気圧されそうになる。
「……それは好きな人ができたという事?」
突きつけられた問いに、ドクンと心臓が大きな音を立てた。
「……はい」
「どうしてそれをわざわざ俺に説明する?伝えたい人がいるなら、こんな所で俺と話しているよりもその人に会うのが先だろう?」
「最初に敦賀さんにお礼を言うのが筋だと思ったからです」
「筋?」
敦賀さんはひどく不快そうに眉を顰めた。
「それはもしかして、俺の訳が君にとって愛情を取り戻す切欠になったから?」
「そうです」
「ふうん、そうなんだ。……君は几帳面だね」
ガタンと音を立てて、敦賀さんの座っていたパイプ椅子が動いた。
「几帳面すぎて、腹立たしいぐらいだ」
「あ、あの…っ」
「つまり、俺はもうお役御免と言うわけ?」
席を立った敦賀さんに、冷たい眼差しで見下ろされた。
思いも寄らない話の展開の、その理由を考える余裕もなかった。敦賀さんは数歩で私の隣まで来ると、机上に右手を付いて私の顔を覗き込んだ。癖のない前髪がサラリと額を流れるのが視界に入る。
「それで俺の所にはもう来れないんだ……?」
触れそうなほど近い距離に、更なる緊張を強いられる。予定外の方向に話が進みそうな気配に、何とか誤解を解こうと懸命に言葉を選んだ。
「そうではなくて、後輩として食事の心配をしたり、演技指導を受ける為に敦賀さんのお宅へ伺う事はしないと言う意味です」
「つまりはそういう事だろう」
「違います…っ」
「同じだよ。今までにそれ以外の用事で君が俺のマンションを訪ねたことなどないんだから」
責めるような強い口調。その中にある一抹の切なさに胸を突かれて、咄嗟に言葉を返す事ができなかった。