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ハピネス

一人、事務所の階段で座り込んでいた君に声をかける。
どうしたの、そんなところで。
何か悩みでもあるの?

ひどく考え込んで、俺が傍にいることさえ気づいていなかった君。
驚いたように俺を見て、何か言いたそうな眼差しを向ける。
話してごらん。
君の思うことをそのままに。

促す言葉に小さく開いた君の唇。
でもそれは音を出すことなく閉じられた。

俺の視線から逃げるように、別に何でもないんですと君は呟く。
何でもないという顔じゃないだろう。
俺は君の相談相手にはなれないのか?
それほど君にとって俺は頼りない存在なのか。

すみません。
苦しげに言う君に、我知らず問い詰めていたことに気が付いた。
ごめんね、俺が君を追い詰めてしまっては仕方がない。
余計なことだったみたいだ。
立ち上がろうとした俺の背広の裾を、君の細い指が慌てて掴んだ。

違うんです、そういう意味ではないんです。
ただいつもあなたに頼ろうとしてしまう私が、そんな私がいけなくて。

どういうこと?
上着にある君の手はそのままに、俺は傍らに座り直す。

私、今演技をすることに躓いているんです。
アイツに裏切られて憎しみの感情を持った私。
そんな私が無償の愛などというものを演じることはできなくて。
想えばそれを返してもらえると、当然のように信じていた。
その私の欲深さを知って。

辛いんです。

泣きそうな顔で君は言う。

君はまだそんなにも彼との過去に縛られているの?
それほどに彼は君にとって大きな存在なのか?

込み上げてくるのは、粘り気のある泥水のような暗く湿った思い。
それを胸の内に無理やり閉じ込める。
目に涙を抱えている君を安心させるために。
君が少しでも楽になれるように、俺は言葉を選ぶ。

それは、当たり前のことではないかな?
人を想えば同じだけの想いを、人は返して欲しいと願うものだよ。

君は意外そうに俺の顔を見る。

あなたでもそう思うんですか?
でもあなたの想いに応えない人などいないでしょう?
ましてや注いだ愛情が返らないことを知り、憎しみという感情を抱いた過去の私。
これが当たり前の想いであるわけがありません。
俺の気持ちを知らない君は、切々と辛そうにそれを語る。

そんなことはないよ。
幾ら想っても気づいてもらえないことが苦しくて。
どれほど見つめても振り向いてくれないことが悲しくて。
その人に近づく者全てに。
その人自身に。
憎悪にも近い感情を抱くことさえあるんだ。

まさか、あなたが。
そんなことあるわけありません。

自分のことだとは夢にも思っていない君。
残酷にも俺の想いを一刀両断に切り捨てる。

あなたは大人で優しくて。
いつも私に最高の勇気と自信を与えてくれる。
だから今もそんなことを言って慰めてくれるんですね。

一人納得した君は、早々に結論を出してしまう。
それが間違った答えである事に少しも気づかずに。

それが分かっているから私、いつもあなたに頼ってしまうんです。
あなたから無償の愛を与えてもらえると知っているから。
だからそれに甘えてしまう。

そして君は祈るように膝の上で手を合わせた。
まるで断罪を待つかのように。

駄目なんです。
私は昔と全然変わっていなくて、相変わらず欲深くて。
あなたの愛は誰にでも向けられるものだと分かっているのに。
その無償の愛を錯覚して、それ以上の物を欲しいと願ってしまう。
私だけのものであって欲しいと望んでしまう。

そんな私に無償の愛など演じられるわけがないんです。

俯く君を俺は信じられない想いで呆然と見つめる。
今、君は何の話をしている?
演技のことではなくて、もう一つの話の方。
君が錯覚をしてまで、俺から欲しいと思っているものは何?
それとも錯覚をしているのは俺の方なのか。

あなたが錯覚というのなら、そう思っていただいても構いません。
君は真っ赤に頬を染めて、握った手を震わせている。

俺は君へと腕を伸ばす。
いつも近くにいながら遠くに感じていた、その君の温もりを知るために。

君は俺が無償の愛を与えていたと言うけれど。

でも俺はそんなものは知らない。
君だから俺は手を差し伸べて、君だから俺はこうして傍にいる。

無償の愛など俺は要らない。
君が俺を欲してくれるその愛が、それこそが俺の本当に欲しいものだから。

腕の中に閉じ込めた君の、頬を濡らす涙を指で拭う。
抱いた君が、俺の名を呼ぶ。
何度も何度も泣きながら。
数年分の涙が枯れ果てるのではと、心配になってしまうほどに。

ようやく涙を収めた君は、困りましたと一言呟いた。
俺の胸でそんなことを言う君に、この手を離すべきなのかと考えて。
それは無理だと更に力を込める。
何が困ったの?
戸惑いと恐れを胸に秘め、できる限り優しく聞いてみる。

私、やっぱり無償の愛を知ることはできないのでしょうか?
望んだ想いを返してもらえて、とても嬉しくて幸せで。
だけど求めることしか知らない私は、役をどう演じていいのか分かりません。

そんなことを真面目に言い出す君が愛しくて。
額に小さなキスを落とす。

難しく考えることはないよ。
それが有償でも無償でも、どちらも愛の形の一つに過ぎなくて。
愛しいと思う心は変わらない。

その人が愛を向けた先に返ってくるものは必ずあるから。
でもそれが他の人には理解しづらかったり、見えなかったりする場合もあるんだよ。
そんな時に人はそれを無償の愛と言うのかもしれないね。

君が演じるという無償の愛。
その愛を捧げることによって、受け取るものがないか探してごらん。
きっとあるはずだから。

それはたった一つの笑顔かもしれないし、想う人の幸福かもしれない。
あるいは自分の心を守るためかもしれないし、多くの人の平和を得るためかもしれない。

その理由はきっと人によって様々だけど。
大丈夫、君なら必ず見つけられるよ。

無言で考え始めた君。
その意識を俺に向けたくて、君の名を呼んでみる。
ごめんね、考え事をしている時に。
俺が振っておいて何だけど、やっぱり今は俺の事を見て欲しいかな。

少しばかり照れているだろう俺を見て、君は僅かに目を見張る。
そして君は嬉しそうに、花がほころぶ様に笑ってくれた。

君と俺が手に入れたのは、二人が一番望んでいた愛の形。


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